令和元年06月


・・・旧東海道「川崎宿〜鶴見」ウォーキング・・

 本来は11月23日に実施予定だったが天気予報では雨、前回とその前も、二回続けて雨の中を実施したが、 今回は案内のとおり、一週間順延し11月30日(土)に実施した。雲ひとつ無い久しぶりの快晴となった。これで雨男も返上である。
 川崎に向かう途中、青空の中に雪を被った美しい富士山が車窓から見え隠れしながらくっきりと見え、冬の到来が景色で感じることができた。
 JR川崎駅へ10時に集合、1週間延期したことから、参加人数は減ったが、阿部、加藤實、岡部、平野、宮本、植田、須田、高橋、 そして東京から田辺の9名の参加となった。
 川崎駅から出発点である六郷の渡しまで、東京方面に向かう。国道15号線の多摩川にかかる橋「新六郷橋」のたもとに、 神奈川への入り口となる旧東海道の六郷の渡しがある。
 明治元年明治天皇の渡御の際、23隻の船を横に並べ、舟橋を作って渡っているモニュメントがあり、その隣に川崎大師の 灯籠がある。初冬のやや寒い川風が吹きつけていたが、皆さん元気よくここから鶴見までの出発である。
 間もなくお江戸日本橋の民謡「六郷渡れば川崎の万年屋」と謡われた「万年屋」跡がある。川崎宿一の旅籠で、皇 女和宮や米国駐日総領事ハリスも立ち寄ったと伝えられている。本来奈良の僧坊で食べていた米、豆、焼栗、野菜、味付けした 茶で炊き込んだ茶飯が当時のグルメとなった万年屋の「奈良茶飯」である。現在は跡地に解説板が設置されている。 参考であるが、現在でも静岡の丸子(まりこ)宿の丁子屋では昔のままの「とろろ汁」を食べることができる。私も食べてみたがこれがなかなか旨い。
 田中本陣跡を通過し川崎交流館で川崎宿の解説をビデオおよび予約しておいた説明員に丁寧に教えて頂いた。
 川崎交流館は川崎宿を知るためにはぜひおすすめの館である。旧東海道は川崎から鶴見までは昔の街道そのまま、 車道部分が実際の道の広さである。昔多摩川は大きく蛇行しており、川による自然堤防がそのまま旧東海道の道となり、 そのため昔は湿地帯であったとのことである。今かろうじてその痕跡を見ることができる場所は砂子交差点の場所であり、 地形をよく見ると少し盛り上がっているとのこと、なんだか「ブラタモリ」の気分である。
 しかし町の開発、戦争等により、往時の遺構はほとんど失われており、石碑などが数点残っているだけとのことであった。
 その他いろいろ興味深い話を聞き休憩室で食事をし、間もなく「芭蕉の句碑」に到着、芭蕉が元禄7年郷里の伊賀に帰る時、 川崎宿に立ち寄り門弟たちとの惜別の思いを託した句「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と詠んだ句碑である。
 実際の場所に実際の句碑が残っているのも全国的にも珍しいとのことである。
 その先は八丁畷の駅である。ここまでくると風は無く、歩くのには最適の気候である。
 八丁畷とは川崎宿の京都川出入り口から西へ八丁(約870m)にわたって畷といって街道が田畑の中をまっすぐ伸びており、 この付近を八丁畷と呼ぶようになったとの事である。また川崎宿は震災、大火、洪水等の災害にたびたび襲われ多くの人々が 犠牲になり、ここに無縁塚も設けられている。
 次に「国常立尊」祀った熊野神社、続いて里程の目標と人馬休憩のための目安として日本橋から一里ごと(4Km毎)に街道の 両側に五間四方の塚を築造した、この市場村の一里塚は江戸より五里目である。往時の塚が今も現存しており、横浜市の 地域文化財に登録されている。
 鶴見橋を渡り、鶴見橋関門旧跡に到着、鶴見橋関門は文久2年(1862年)、生麦事件を契機として、警備のための見張り番所が 川崎宿〜保土ヶ谷宿の間に20か所設けられたその一つとの事である。明治4年各関門はその役目を終え廃止されている。
 間もなく鶴見駅に到着、ここから恒例の懇親会を前回と同じ「餃子の王将」で実施、阿部さんの乾杯の音頭により美味しい お酒で楽しいひと時を過ごすことができた。皆さんお疲れ様でした。次回もよろしくお願いします。
                                       (役員一同)